南方熊楠 - 柳田國男と泥酔して面会。 講演会では都々逸、百面相!-

南方熊楠
12 /10 2016
南方熊楠は、大酒豪家としても知られる。

東大予備門時代から大酒飲みで、
留学先のミシガン州農学校は酒が原因で退学、
ロンドンでもビールを浴びるほど飲んでいた。

親交の深かった孫文・柳田國男と
酒を酌み交わした逸話や、
酒にまつわる数々のエピソードも残されている。

今回は、和歌山県 田辺定住時代の
ハチャメチャな酒にまつわる
エピソードを紹介する。

ちなみに熊楠は、清酒世界一統の
創業者である南方弥兵衛(のちに弥右衛門に改名)
の実子にあたる。

世界一統は、この弥右衛門が1884年(明治17年)に創業。
明治23年に熊楠の弟である南方常楠が事業を継承。
現在の直系である社長(南方康治 氏)は6代目にあたる。


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■1904年(明治37)10月田辺へ来た熊楠は、
喜多幅武三郎、多屋寿平次一家、
川島草堂らと交わるうち、この地が
「至って人気よろしく、物価安く静かにあり、
風景気候はよし」ということで、
気に入って、ついにここに落ち着くことになった。

 中屋敷町中丁北端の多屋家の持ち家を借り、
和歌山に置いていた書物を取り寄せるなどして、
気ままな生活を始めた。

 多屋家の借宅は田辺の古くからの住宅地で、
近くに料亭や芸妓の置屋も多くあり、
知人達をそこに集め、また芸者を呼び、飲み、
得意の都々逸や、大津絵などを唄ったり、
奇芸をして騒ぐことが多かった。


熊楠は、多数の人に講演することの嫌いな人で、
そういう場合はしばしば酔って登壇した。

■田辺では、1909年(明治四十二年) 42歳のとき、台場公園売却反対集会で、
酔って壇上で都々逸を歌い、さらに巡査と乱暴に及ぼうとして、
石友(石工の佐武友吉)に助けられている。


■1910年(明治四十三年)43歳の時、田辺中学で開かれていた
紀伊教育会主催夏期講習会の会場に、神社合祀推進派の
県吏に面会しようと「乱入」して警察に拘引された時も酔っていた。

会場へ行く前に牟婁新報社を訪れた時にも、すでに少し酔っていた。

社長の毛利清雅の言によると、「あとで聞けば先生は、社で飲んで、
それから小倉酒店で飲んで、玉三酒店で飲んだ。
今朝来ビール瓶を倒す事約十幾本……」という状態だった。

結局、酒の上のことだというので「放免」になった。


■1913年(大正二年)熊楠(46歳)、
12月に柳田国男(39歳)が
田辺を訪れたときも、自宅に柳田を迎えながら、
こちらから旅館に伺うといって帰し、
旅館の錦城館へ行く途中で
例の小倉酒店に寄り、さらに旅館の帳場で、
初めての人に会うのはどうも
恥ずかしいと酒を注文している。

熊楠は緊張のあまり酒を痛飲し、
泥酔状態で面会したという。

柳田の部屋に通されたときにはすっかり出来上がっていて、
両者のただ一度の面会は奇妙なものとなった。


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<柳田國男>


■1920年(大正九年)、53歳の時、高野山に菌採集に登った際、
しぶしぶ講演を承知したが、定刻になっても
会場の大師堂教会に現われず、さがすと
小さな居酒屋で飲んでいた。
結局、壇上で突然、泣きだしたり、
「恒河のほとりに住まいして(チンチン―口三味線)
娑羅双樹の下で涅槃する」
と二上りの調子で歌いだす始末だった。


1920年(大正九年)、53歳のとき、高野山で、
ほぼ三十年ぶりに土宜法竜と面会した。
宿舎の一条院の宿房で朝食中に金剛峰寺から
電話がかかってきて、管長(法竜)が面会したいという。
朝食を中止して同行者たちは衣服を改めたが、
熊楠は茶碗を突き出して「酒」と命じて結局二本飲んで
面会した。

■1921年(大正十年)の法竜との再度の
面会の時も、同行の画家、楠本秀男は
「先生、先きに酒気あり」と書き、
法竜の部屋が暖められていたため
一時に酔いを発し、いびきをかいて眠り込んでしまった、
と述べている。

■1922年(大正十一年)、55歳の時、上京した際、中山太郎に
ともなわれて国学院大学へでかけたが、壇上に立たされても
一言もしゃべらず、百面相を
してみせたという。 もちろん酔っていたのである。

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世界一統 熊楠 大吟醸




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*写真は「燃えよドラゴン」のロケ地である香港・青山寺にて撮影。
有名な「Don't think. Feel!」(あれこれ考えるな。感じとれ!)
のセリフを残した場所。