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南方熊楠 - 胆力・酒量無限大、生涯ネンキン生活、歩く博物館 -

南方熊楠
12 /10 2016
数年前(2013年2月13日)に長年の念願であった和歌山県の
白浜にある南方熊楠記念館を訪れた。

初めて熊楠を知ったのはかれこれ20年以上前になるだろうか。。。

最初の出会いは、水木しげる先生の伝記マンガだったか、
ジャンプに連載されていた「てんぎゃん」だったか、
はたまたテレビ番組だったかは忘れたが、
その時の強烈な印象は今も忘れない。

東京大学を退学、アメリカに渡ったあとイギリスの
大英博物館で働いたが、けんかして首になる。。

尋常ではな胆力を持ち、豪快、我が道をゆく、
権威など屁のかっぱ。 豪傑、超人的な記憶力、

科学雑誌ネイチャー誌に掲載された論文の数は
約50報、日本人最高記録保持者、

天皇陛下へ粘菌標本を献上した際に
森永のキャラメルの箱を使う、

神社合祀令に対し、神社合祀反対運動を
おこした元祖エコロジスト、

英語、フランス語、ドイツ語はもとよりサンスクリット語に
およぶ19の言語を操る、

孫文、柳田國男との交流、

南方熊楠の伝説、逸話を挙げれば
キリがない。

特に数あるエピソードの中でも
当時、まだ日本人が低く見られていた
アメリカ、イギリスでの活躍は
自分自身の留学時代の励みになったし、
今も海外で生活している自分に
とっては、その大和魂の権化の
ような偉大には相当、勇気づけられた。
そして何より、その生き方は
今で言うフリーター、自由人、
バガボンドであり、痛快にして
素直に面白い。

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1891年アメリカにて。 眼光の強さが非常に印象的だ。 
意志の強さがうかがい知れる。。


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南紀白浜 「南方熊楠記念館」


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南方熊楠のデスマスクの写真(南方熊楠記念館内)



南方 熊楠(みなかた くまぐす)


1867年5月18日(慶応3年4月15日) - 1941年(昭和16年)12月29日)

日本の博物学者、生物学者(特に菌類学)、民俗学者である。

菌類学者としては粘菌の研究で知られている。

主著『十二支考』『南方随筆』など。

投稿論文や書簡が主な執筆対象であったため、
平凡社編集による全集が刊行された。

「歩く百科事典」と呼ばれ、彼の言動や性格が奇抜で
人並み外れたものであるため、
後世に数々の逸話を残している。


<人物基本情報>

誕生:1867年5月18日 紀伊国・和歌山

死没:1941年12月29日(満74歳没)和歌山県・田辺町

居住:アメリカ合衆国、 イギリス

国籍:大日本帝国

研究分野:博物学、生物学(特に菌類学)、民俗学

研究機関:大英博物館

主な業績:粘菌の研究

<人物、エピソード>
■子供の頃から、驚異的な記憶力を持つ神童だった。
また常軌を逸した読書家でもあり、
蔵書家の家で100冊を超える本を見せてもらい、
それを家に帰って記憶から書写するという卓抜した
能力をもっていた。
田辺在住の知人野口利太郎は南方と会話した際、
“某氏”の話が出た。
南方は即座に、「ああ、あれは富里の平瀬の出身で、
先祖の先祖にはこんなことがあり、こんな事
をしていた」ということを話した。
野口は「他処の系図や履歴などを知っていたのは
全く不思議だった」
と述べている。


■元田辺署の署長をした小川周吉が巡査部長をしていた頃、
南方をいろいろ調べたことがあった。
その後、南方と一緒に飲んだが、他へ転任して
20年ほどたって今度は署長として田辺へ着任した時、
挨拶に行ったところ南方は小川の名前を覚えていたどころか、
飲んだ席にいた芸者の名前や原籍まで
覚えていて話したという。


■旧制中学入学前に『和漢三才図会』『本草綱目』
『諸国名所図会』『大和本草』『太平記』を
書き写した筆写魔(ただし、『和漢三才図会』のみは
筆写完了は旧制中学在学中)であり、
また、旧制中学在学中には漢訳大蔵経を読破したといわれる。


■奇行が多かったことで知られる。 異常な癇癪持ちであり、
一度怒り出すと手がつけられないほど
凶暴になると、両親など周囲の人々は熊楠の子供時代から
頭を抱えていた。
熊楠も自分のそういった気性を自覚しており、
自分が生物学などの学問に打ち込むことは、
それに熱中してそうした気性を落ち着かせるためにやるものだと、
柳田国男宛の書簡で書いている。 そのまた、多汗症から、
薄着あるいは裸で過ごすことが多かった。
田辺の山中で採集を行った際、ふんどしだけの裸で
山を駆け下り、農村の娘たちを驚かせたために
「てんぎゃん」(紀州方言で天狗のこと)と
呼ばれたという話も残る。


■渡米の前に「僕もこれから勉強をつんで、
洋行すましたそのあとは、降るアメリカをあとに見て、
晴るる日の本立ち帰り、一大事業をなしたのち、
天下の男といわれたい」という決意の都々逸を
残している。
この留学は徴兵で子供を失うことを危惧していた父と、
徴兵による画一的な指導を嫌った熊楠との間で
利害の一致を見たために実現したと考えられている。
なお熊楠本人は純粋な愛国主義者で、
英国留学中に大使館を通し義援金を振り込んでいる。


■幼少の頃は興味の無い科目には全く目を向けず
散漫な態度を教師に叱られ、大学時代も
勉学に打ち込む同級生を傍目に
「こんな事で、一度だけの命を賭けるのは馬鹿馬鹿しい」と
大学教育に見切りをつける。


■ロンドン大学事務総長の職にあった
フレデリック・V・ディキンズ(英語版)は
『竹取物語』を英訳した草稿に目を通してもらおうと
南方に大学へ来るように、と呼び出す。
南方はページをめくる毎にディキンズの不適切な
翻訳部分を指摘し推敲するよう命じる。
日本に精通して翻訳に自信を持っていた
ディキンズは30歳年下の若造の不躾な振る舞いに
「目上の者に対して敬意も払えない日本の野蛮人め」
と激昂、南方もディキンズのこの高慢な態度に腹を立て
「権威に媚び明らかな間違いを不問にしてまで
阿諛追従する者など日本には居ない」と怒鳴り返す。
その場は喧嘩別れに終わるが暫くして南方の言い分に
得心したディキンズはそれから終生、
南方を友人として扱った。


■猫好きなことで有名。ロンドン留学から帰国後、
猫を飼い始める。名前は一貫してチョボ六。
ロンドン時代は、掛け布団がわりに猫を抱いて寝ていたという。
のちに妻となる松枝に会う口実として、何度も汚い猫を
連れてきては猫の身体を松枝に洗ってもらった。


■熊楠は、柳田國男にジョージ・ゴム(英語版)(George Laurence Gomme)編
『The handbook of folklore(民俗学便覧)』を貸している。
これは、日本の民俗学の体系化に大きな影響を与えることとなった。


■ホメロスの『オデュッセイア』が中世日本にも伝わり、
幸若舞などにもなっている説話
『百合若大臣』に翻案されたという説を唱えた。


■熊楠の手による論文はきちんとした起承転結が無く、
結論らしき部分がないまま突然終わってしまうこともあった。
また、扱っている話題が飛び飛びに飛躍し、隣人の悪口
などまったく関連のない話題が突然割り込んでくることもあった。
さらに、猥談が挟み込まれることも多く、柳田国男はそうした
熊楠の論文にたびたび苦言を呈した。

しかし、思考は細部に至るまで緻密であり、
一つ一つの論理に散漫なところはまったく無く、
こうした熊楠の論文の傾向を中沢新一は研究と
同じく文章を書くことも熊楠自身の気性を
落ち着かせるために重要だったためと分析している。

「熊楠の文章は、異質なレベルの間を、自在にジャンプ
していくのだ。 (中略)話題と話題がなめらかに
接続されていくことよりも、熊楠はそれらが、
カタストロフィックにジャンプしていくことのほうを、好むのだ。」、
「文章に猥談を突入させることによって、
彼の文章はつねに、なまなましい生命が侵入し
ているような印象があたえられる、(中略)言葉の秩序の中に、
いきなり生命のマテリアルな基底が、突入してくるのだ。
このおかげで熊楠の文章は、ヘテロジニアスな構造を
もつことになる。」と分析し、「こういう構造をもった文章でなければ、
熊楠は書いた気がしなかったのだ。
手紙にせよ、論文にせよ、なにかを書くことは、
熊楠の中では、自分の大脳にたえまなく発生する
分裂する力に、フォルムをあたえ満足させる、
という以外の意味をもっていなかったからだ。」と考え、
また彼の文体構造の特徴を「マンダラ的である」とも語り、
「マンダラの構造を、文章表現に移し変えると、
そこに熊楠の文体が生まれ出てくる。」
とも述べている。


■生涯定職に就かなかったためにろくに収入が無く、
父の遺産や造り酒屋として成功していた弟・常楠の援助に
頼りっきりだった。
常楠は、奇行が多い上に何かにつけて自分に援助を
求めてくる兄をこころよく思っておらず、研究所設立のため
資金集めをしていた時に遺産相続の問題で衝突して以降、
生涯絶縁状態になった。
熊楠が危篤の際には電報を受けて駆けつけたが、
臨終には間に合わなかった。


■口から胃の内容物を自在に吐瀉できる反芻胃を持つ体質で、
小学校時代も喧嘩をすると“パッ”と吐いた。
そのため、喧嘩に負けたことが無かったという。

■蔵書家ではあったが、不要な本はたとえ
贈呈されたものであっても返却したという。
また、「学問は活物(いきもの)で書籍は糟粕だ」との
ことばも残している。
ただし、こんにち残された蔵書のほとんどはシミ一つなく
色褪せない状態で保存されているという。


■酒豪であり、友人とともに盛り場に繰り出して芸者をあげて
馬鹿騒ぎをするのが何よりも好きだった。
酔って喧嘩をして警察の世話になるなど、
酒にまつわる失敗も少なくなかった。


■語学にはきわめて堪能で英語、フランス語、ドイツ語は
もとよりサンスクリット語におよぶ19の言語を操ったといわれる。
語学習得の極意は「対訳本に目を通す、それから酒場に出向き
周囲の会話から繰り返し出てくる言葉を覚える」の2つだけであった。


■1906年(明治39年)末に布告された「神社合祀令」によって
土着の信仰・習俗が毀損され、また神社林(いわゆる
「鎮守の森」)が伐採されて固有の生態系が破壊されてしまうことを憂い、
翌1907年(明治40年)より神社合祀反対運動を起こした。
今日、この運動は自然保護運動、あるいはエコロジー活動の
先がけとして高く評価されており、その活動は、2004年(平成16年)
に世界遺産(文化遺産)にも登録された熊野古道が
今に残る端緒ともなっている。


■江戸川乱歩、岩田準一とともに男色(衆道)関連の
文献研究を熱心に行ったことでも知られている。
戦前の日本では男色行為は決して珍しいことではなかったが、
熊楠自身にそういった経験があったかどうかは不明。


■当時の人間にしては珍しく、比較的多くの写真が
残っているため写真に撮られるのが好きだった
といわれている。


■臨終の際、医者を呼ぶかと問われると
「花が消えるから」と拒否したという。


■熊楠の脳は大阪大学医学部にホルマリン漬けとして保存されている。
本人は幽体離脱や幻覚などをたびたび体験していたため、
死後自分の脳を調べてもらうよう要望していた。
MRIで調べたところ右側頭葉奥の海馬に萎縮があり、
それが幻覚の元になった可能性があるといわれる。


■熊楠が飼っていた亀は2000年(平成12年)近くまで生きていた。
正確な年齢はわからないものの、100歳は超えていたといわれる。



猫楠―南方熊楠の生涯 <角川文庫>

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スマイルKK

趣味:マニアック且つ良い意味でクレイジーに生きた人物を探すこと!

*写真は「燃えよドラゴン」のロケ地である香港・青山寺にて撮影。
有名な「Don't think. Feel!」(あれこれ考えるな。感じとれ!)
のセリフを残した場所。

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