ブルー・スリー - 香港・油麻地にあるクラブ・ショップ -

ブルース・リー
12 /10 2016
香港で、ブルース・リーに
関連した場所を紹介。

■ブルース・リー・クラブ・ショップ
Bruce Lee Club Shop
最寄駅: MTR油麻地駅
様々なグッズが買えるショップ。
貴重なお宝品も店内に展示していた。

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このビルの中に店舗がはいっている。


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ショップ内の展示ケース。


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ブルース・リー - 香港文化博物館、李小龍展 -

ブルース・リー
12 /10 2016
香港 Sha Tin にある香港文化博物館を訪問。

2013年7月20日は没後40年にあたり、
2018年7月20日までの
期間限定で香港文化博物館において
映画の衣装やアクションシーンのスケッチなど
映画関連をはじめ、家族にあてた手紙など
ブルース・リーゆかりの品、約600点を展示する
『武‧藝‧人生 ─ 李小龍』展が開催されている。

直筆の映画制作ノート、詩、絵、撮影に使用された
小道具/衣服、ブライベート写真等々、コレクション数では
他に例を見ない。 映画で使用されてヌンチャクや
「死亡遊戯」で着用していた黄色のジャージ
も展示してあった。 

そのほか、プライベートで使用していた
衣服やサングラスなどなど、
娘のシャロン・リーが全面協力している
だけあって内容は相当、充実している。

展示面積は、850平方メートル。 
ここはファンならずとも
一見の価値があると思う。

残念ながら展示物は撮影禁止だった。

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ブルース・リー - ゆかりの地を訪ねて、King's Parkの階段 -

ブルース・リー
12 /10 2016
香港 MTRの油麻地駅から徒歩5分の
ところにあるキングスパークの階段。

ここは、ブルース・リーこと李小龍が幼少時代、
父と共に武術の鍛錬に励んでいた場所である。

階段は約400段あり、急勾配、ここで、うさぎ跳び等、
クンフーの修行をし強靭な肉体を作り上げた。

運動がてら登ってみたが相当きつかった(汗)。

頂上はグランドになっていた。

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香港から深せんへは、
福田口岸を通って移動する。
香港のイミグレーションを
抜けたところで
足止めをくってしまった。
どうやら、深せん側で
厳重なスマグル(密輸)
の取り締まりをやっているみたいだ。
いつもならスムーズに通れるのだが、
この日は、イミグレを通過するのに
3時間くらいかかってしまった。



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ブルース・リー - 香港・青山禅寺 「燃えよドラゴン」ロケ地を訪ねて -

ブルース・リー
12 /10 2016
自分は、ブルース・リーのファンだ。

現在、住んでいる深せん市福田区
から香港へは、福田口岸という
イミグレーションを通って歩いて行ける。

今回は、2016年に香港で
訪問したブルース・リー
ゆかりの地を紹介する。

<基本情報>
ブルース・リー
(李小龍、Bruce Lee、出生名:李振藩)
1940年11月27日 - 1973年7月20日

サンフランシスコ中華街生まれの
中国人、香港人、中国武術家、武道家、
香港の俳優、脚本家、映画プロデューサー。

截拳道(ジークンドー)を創始した
マーシャルアーティストとしても知られる。

墓碑銘は『FOUNDER OF JEET KUNE DO』。

リンダ・エメリーとの間に一男一女。

息子は故ブランドン・リー、
娘はシャノン・リー、
孫娘は、レン・キースラー。

<代表作>
『ドラゴン危機一発』
1971年、原題:唐山大兄 THE BIG BOSS。
1971年10月31日~11月22日 3,197,416香港ドル、
香港では『サウンド・オブ・ミュージック』や
『残酷ドラゴン・血斗!竜門の宿』を破る最高記録。
日本では1974年の洋画部門の興行収入第4位、6億円。

『ドラゴン怒りの鉄拳』
1972年、原題:精武門 FIST OF FURY。
日本では1974年洋画部門の興行収入第4位、6億円。

『ドラゴンへの道』
1972年、原題:猛龍過江 THE WAY OF THE DRAGON

『燃えよドラゴン』
1973年、原題:ENTER THE DRAGON 龍争虎闘。
日本では1974年洋画部門の興行収入第2位、16億4200万円。

『死亡遊戯』
1978年、原題:死亡遊戯 GAME OF DEATH


■映画 「燃えよドラゴン」の冒頭部分のロケ地:香港にある青山寺。

アクセスは、香港のMTR(鉄道路線)
屯門駅からタクシーに乗って、15分くらい
山道を昇り、到着した。

帰りは散歩がてら山道を徒歩で降り、
LRTの青山村駅から帰った。

途中、10数匹の野良犬に遭遇したり、
線香を持ちながら、青山禅寺の
方向に礼をしてから、体を地べたにつけて、
また起き上がり、礼を繰り返しながら
進む女性をみたりした。
この参拝のしかたは、香港のランタオ島
にあるハート・スートラ(Wisdom Path)
へいく途中でも見かけたことがある。

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ディレクターズカット 燃えよドラゴン(初回限定生産) [DVD]
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南方熊楠 - ミシンガン州立農学校:ウィスキーで泥酔、退学 -

南方熊楠
12 /10 2016
南方熊楠のアメリカ時代
のエピソード。

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現在のミシガン州立大学図書館


■1886年10月、 アメリカ留学の決まった熊楠は、
和歌山松寿亭で杉村広太郎(のち楚人冠(そじんかん)
と号した有名な新聞記者)ら友人たちと別離の会を開き、
神戸から横浜に向かい、東京での渡航準備や
紀州出身の学友達と留別送の会を催し、
1886年(明治19)12月22日、
横浜からシティ・オブ・ペキン号(3,120トン)に
乗船して、渡米の途についた。

これより前、親友羽山繁太郎に贈った写真の裏に、

「僕も是から勉強をつんで、洋行すましたその後は、ふるあめりかを
跡に見て、晴る日の本立ち帰り、一大事業をなした後、
天下の男といはれたい」

と、その決意の程を記している。

ペキン号は、翌1887年(明治20)1月7日、サンフランシスコ
に入港した。
翌日、上陸して、熊楠は間もなく同地のパシフィック・ビジネス・カレッジ
(商業学校)に入学した。 しかし、もともと商業嫌いな熊楠は、
勉強するつもりはなく、いわば外国生活を体験したようなものであった。

■1887年(明治20年) 8月  
1887年8月にシカゴを経てランシングに行き、
ミシガン州立農学校に入学願書を
提出し、試験の結果入学を許可された。
(ミシガン州ランシング市、現・ミシガン州立大学)

■1888年(明治21年)
寄宿舎での飲酒を禁ずる校則に違反して自主退学。

<退学の経緯>
1888年4月、日本人学生二人と幾何学の勉強中、
アメリカ人学生の乱暴に会い乱闘騒ぎが起こるが、
熊楠が認めた訴文などにより、
校長の裁判によってアメリカ人学生は
停学処分となりひとまず解決した、

しかし11月、寄宿舎にて小宴をし、
アメリカ人学生二人、日本人学生二人と
ウイスキ-を飲み、「法師さん」の遊びをし大酔して、
自室に帰る途中廊下で眠り、
雪中寄宿舎見回りの校長に発見され、
問題になることとなった。

しかし、他の四人の放校を免れる為、熊楠一人が
責任をとることとし、翌早朝、
農学校を去りアナーバーに移ったのである。。。


*「法師様(ほうしさん)」:
大阪や和歌山などで宴席に行われた遊び。
宴席に参加している者たちが輪になって座り、
その1人が手拭で眼を縛り座ると、
他の1人が輪の真ん中に座って
「法師様ぇ、法師様ぇ、どこへ盃さーしましょ」と唄い、
「さて、ここかここか」と唱えながら思い付き次第に
人々を指す。
仮の盲法師が「まだまだ」と言えば人を差しかえ、
「そこじゃ」と言えば指された人が飲まなければならない。
飲み終わって手拭を受け新たに法師となる。

南方熊楠 - 日本人の可能性の極限 (中公新書)

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南方熊楠 - 神社合祀反対運動で泥酔して抗議=>投獄=>粘菌発見!-

南方熊楠
12 /10 2016
熊楠、神社合祀反対運動でのエピソード。

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■1906年(明治39)の終りごろから、
第一次西園寺内閣は神社合祀を全国に励行し、
次の桂内閣もこれを引き継いだ。

これは、各集落毎に数々ある神社を合祀して、
一町村一神社を標準とせよというもので、
和歌山県はとくに強制威圧的に推進しようとした。

 町村の集落ごとに祀られている神社は、住民の融和、
慰安や信仰の拠)りどころであり、史跡と古伝の滅亡させるもので、
また、そこにはほとんど例外なく、うっそうとした森林があった。

神社合祀が行われると併合された後の神社林が
伐採されることで自然風景と貴重な解明されていない
生物が絶滅するのなどを心配したのである。

 各地で住民が身近な神社の無くなるのを嘆くのを見て、
当時、さきがけて合祀反対の立場をとっていた
『牟婁新報』の社主、毛利清雅の新聞に反対意見を発表し、
合祀を推進する県や郡の役人を攻撃した。

 『牟婁新報』には毎号、反対意見を投稿し、掲載され賑わしたが、
さらに『大阪毎日新聞』、『大阪朝日新聞』、『東京朝日新聞』などにも
反対意見の原稿を送り、また中央の学者に応援を求める働きかけをした。

 なかでも、東京大学教授で植物の権威、松村任三(じんぞう)に、
国・県の神社合祀のやり方をきびしく批判した長文の手紙を寄せた。

これを、民俗学者で当時内閣法制局参事官であった柳田國男が、
『南方二書』として印刷し、関係者に配布して熊楠の運動を助けた。

■1910年(明治43)8月、田辺中学校講堂(現田辺高校)で
夏期教育講習会があり、主催者側として出席した田村某は
神社合祀を進める県の役人で、熊楠はこの人に会おうと
閉会式の会場を訪れたところ、入場を阻止されたので、
酒の酔いも手伝って、持っていた標本の入った
信玄袋を会場内へ投げ込んだ。

このことから「家宅侵入罪」で連行され、
18日間、未決のまま監獄に入れられた。

結局、無罪で釈放となったが、その間、
本を読み、構内で粘菌を見つけたりした。

釈放される時、看守がそのことを知らせると、
「ここへは誰も来ないので静かだし、その上涼しい。
もう少し置いてほしい」と言って、
出ようとしなかったと伝えられている。



南方熊楠 - 日本人の可能性の極限 (中公新書)

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南方熊楠 - 柳田國男と泥酔して面会。 講演会では都々逸、百面相!-

南方熊楠
12 /10 2016
南方熊楠は、大酒豪家としても知られる。

東大予備門時代から大酒飲みで、
留学先のミシガン州農学校は酒が原因で退学、
ロンドンでもビールを浴びるほど飲んでいた。

親交の深かった孫文・柳田國男と
酒を酌み交わした逸話や、
酒にまつわる数々のエピソードも残されている。

今回は、和歌山県 田辺定住時代の
ハチャメチャな酒にまつわる
エピソードを紹介する。

ちなみに熊楠は、清酒世界一統の
創業者である南方弥兵衛(のちに弥右衛門に改名)
の実子にあたる。

世界一統は、この弥右衛門が1884年(明治17年)に創業。
明治23年に熊楠の弟である南方常楠が事業を継承。
現在の直系である社長(南方康治 氏)は6代目にあたる。


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■1904年(明治37)10月田辺へ来た熊楠は、
喜多幅武三郎、多屋寿平次一家、
川島草堂らと交わるうち、この地が
「至って人気よろしく、物価安く静かにあり、
風景気候はよし」ということで、
気に入って、ついにここに落ち着くことになった。

 中屋敷町中丁北端の多屋家の持ち家を借り、
和歌山に置いていた書物を取り寄せるなどして、
気ままな生活を始めた。

 多屋家の借宅は田辺の古くからの住宅地で、
近くに料亭や芸妓の置屋も多くあり、
知人達をそこに集め、また芸者を呼び、飲み、
得意の都々逸や、大津絵などを唄ったり、
奇芸をして騒ぐことが多かった。


熊楠は、多数の人に講演することの嫌いな人で、
そういう場合はしばしば酔って登壇した。

■田辺では、1909年(明治四十二年) 42歳のとき、台場公園売却反対集会で、
酔って壇上で都々逸を歌い、さらに巡査と乱暴に及ぼうとして、
石友(石工の佐武友吉)に助けられている。


■1910年(明治四十三年)43歳の時、田辺中学で開かれていた
紀伊教育会主催夏期講習会の会場に、神社合祀推進派の
県吏に面会しようと「乱入」して警察に拘引された時も酔っていた。

会場へ行く前に牟婁新報社を訪れた時にも、すでに少し酔っていた。

社長の毛利清雅の言によると、「あとで聞けば先生は、社で飲んで、
それから小倉酒店で飲んで、玉三酒店で飲んだ。
今朝来ビール瓶を倒す事約十幾本……」という状態だった。

結局、酒の上のことだというので「放免」になった。


■1913年(大正二年)熊楠(46歳)、
12月に柳田国男(39歳)が
田辺を訪れたときも、自宅に柳田を迎えながら、
こちらから旅館に伺うといって帰し、
旅館の錦城館へ行く途中で
例の小倉酒店に寄り、さらに旅館の帳場で、
初めての人に会うのはどうも
恥ずかしいと酒を注文している。

熊楠は緊張のあまり酒を痛飲し、
泥酔状態で面会したという。

柳田の部屋に通されたときにはすっかり出来上がっていて、
両者のただ一度の面会は奇妙なものとなった。


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<柳田國男>


■1920年(大正九年)、53歳の時、高野山に菌採集に登った際、
しぶしぶ講演を承知したが、定刻になっても
会場の大師堂教会に現われず、さがすと
小さな居酒屋で飲んでいた。
結局、壇上で突然、泣きだしたり、
「恒河のほとりに住まいして(チンチン―口三味線)
娑羅双樹の下で涅槃する」
と二上りの調子で歌いだす始末だった。


1920年(大正九年)、53歳のとき、高野山で、
ほぼ三十年ぶりに土宜法竜と面会した。
宿舎の一条院の宿房で朝食中に金剛峰寺から
電話がかかってきて、管長(法竜)が面会したいという。
朝食を中止して同行者たちは衣服を改めたが、
熊楠は茶碗を突き出して「酒」と命じて結局二本飲んで
面会した。

■1921年(大正十年)の法竜との再度の
面会の時も、同行の画家、楠本秀男は
「先生、先きに酒気あり」と書き、
法竜の部屋が暖められていたため
一時に酔いを発し、いびきをかいて眠り込んでしまった、
と述べている。

■1922年(大正十一年)、55歳の時、上京した際、中山太郎に
ともなわれて国学院大学へでかけたが、壇上に立たされても
一言もしゃべらず、百面相を
してみせたという。 もちろん酔っていたのである。

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世界一統 熊楠 大吟醸




南方熊楠 - 胆力・酒量無限大、生涯ネンキン生活、歩く博物館 -

南方熊楠
12 /10 2016
数年前(2013年2月13日)に長年の念願であった和歌山県の
白浜にある南方熊楠記念館を訪れた。

初めて熊楠を知ったのはかれこれ20年以上前になるだろうか。。。

最初の出会いは、水木しげる先生の伝記マンガだったか、
ジャンプに連載されていた「てんぎゃん」だったか、
はたまたテレビ番組だったかは忘れたが、
その時の強烈な印象は今も忘れない。

東京大学を退学、アメリカに渡ったあとイギリスの
大英博物館で働いたが、けんかして首になる。。

尋常ではな胆力を持ち、豪快、我が道をゆく、
権威など屁のかっぱ。 豪傑、超人的な記憶力、

科学雑誌ネイチャー誌に掲載された論文の数は
約50報、日本人最高記録保持者、

天皇陛下へ粘菌標本を献上した際に
森永のキャラメルの箱を使う、

神社合祀令に対し、神社合祀反対運動を
おこした元祖エコロジスト、

英語、フランス語、ドイツ語はもとよりサンスクリット語に
およぶ19の言語を操る、

孫文、柳田國男との交流、

南方熊楠の伝説、逸話を挙げれば
キリがない。

特に数あるエピソードの中でも
当時、まだ日本人が低く見られていた
アメリカ、イギリスでの活躍は
自分自身の留学時代の励みになったし、
今も海外で生活している自分に
とっては、その大和魂の権化の
ような偉大には相当、勇気づけられた。
そして何より、その生き方は
今で言うフリーター、自由人、
バガボンドであり、痛快にして
素直に面白い。

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1891年アメリカにて。 眼光の強さが非常に印象的だ。 
意志の強さがうかがい知れる。。


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南紀白浜 「南方熊楠記念館」


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南方熊楠のデスマスクの写真(南方熊楠記念館内)



南方 熊楠(みなかた くまぐす)


1867年5月18日(慶応3年4月15日) - 1941年(昭和16年)12月29日)

日本の博物学者、生物学者(特に菌類学)、民俗学者である。

菌類学者としては粘菌の研究で知られている。

主著『十二支考』『南方随筆』など。

投稿論文や書簡が主な執筆対象であったため、
平凡社編集による全集が刊行された。

「歩く百科事典」と呼ばれ、彼の言動や性格が奇抜で
人並み外れたものであるため、
後世に数々の逸話を残している。


<人物基本情報>

誕生:1867年5月18日 紀伊国・和歌山

死没:1941年12月29日(満74歳没)和歌山県・田辺町

居住:アメリカ合衆国、 イギリス

国籍:大日本帝国

研究分野:博物学、生物学(特に菌類学)、民俗学

研究機関:大英博物館

主な業績:粘菌の研究

<人物、エピソード>
■子供の頃から、驚異的な記憶力を持つ神童だった。
また常軌を逸した読書家でもあり、
蔵書家の家で100冊を超える本を見せてもらい、
それを家に帰って記憶から書写するという卓抜した
能力をもっていた。
田辺在住の知人野口利太郎は南方と会話した際、
“某氏”の話が出た。
南方は即座に、「ああ、あれは富里の平瀬の出身で、
先祖の先祖にはこんなことがあり、こんな事
をしていた」ということを話した。
野口は「他処の系図や履歴などを知っていたのは
全く不思議だった」
と述べている。


■元田辺署の署長をした小川周吉が巡査部長をしていた頃、
南方をいろいろ調べたことがあった。
その後、南方と一緒に飲んだが、他へ転任して
20年ほどたって今度は署長として田辺へ着任した時、
挨拶に行ったところ南方は小川の名前を覚えていたどころか、
飲んだ席にいた芸者の名前や原籍まで
覚えていて話したという。


■旧制中学入学前に『和漢三才図会』『本草綱目』
『諸国名所図会』『大和本草』『太平記』を
書き写した筆写魔(ただし、『和漢三才図会』のみは
筆写完了は旧制中学在学中)であり、
また、旧制中学在学中には漢訳大蔵経を読破したといわれる。


■奇行が多かったことで知られる。 異常な癇癪持ちであり、
一度怒り出すと手がつけられないほど
凶暴になると、両親など周囲の人々は熊楠の子供時代から
頭を抱えていた。
熊楠も自分のそういった気性を自覚しており、
自分が生物学などの学問に打ち込むことは、
それに熱中してそうした気性を落ち着かせるためにやるものだと、
柳田国男宛の書簡で書いている。 そのまた、多汗症から、
薄着あるいは裸で過ごすことが多かった。
田辺の山中で採集を行った際、ふんどしだけの裸で
山を駆け下り、農村の娘たちを驚かせたために
「てんぎゃん」(紀州方言で天狗のこと)と
呼ばれたという話も残る。


■渡米の前に「僕もこれから勉強をつんで、
洋行すましたそのあとは、降るアメリカをあとに見て、
晴るる日の本立ち帰り、一大事業をなしたのち、
天下の男といわれたい」という決意の都々逸を
残している。
この留学は徴兵で子供を失うことを危惧していた父と、
徴兵による画一的な指導を嫌った熊楠との間で
利害の一致を見たために実現したと考えられている。
なお熊楠本人は純粋な愛国主義者で、
英国留学中に大使館を通し義援金を振り込んでいる。


■幼少の頃は興味の無い科目には全く目を向けず
散漫な態度を教師に叱られ、大学時代も
勉学に打ち込む同級生を傍目に
「こんな事で、一度だけの命を賭けるのは馬鹿馬鹿しい」と
大学教育に見切りをつける。


■ロンドン大学事務総長の職にあった
フレデリック・V・ディキンズ(英語版)は
『竹取物語』を英訳した草稿に目を通してもらおうと
南方に大学へ来るように、と呼び出す。
南方はページをめくる毎にディキンズの不適切な
翻訳部分を指摘し推敲するよう命じる。
日本に精通して翻訳に自信を持っていた
ディキンズは30歳年下の若造の不躾な振る舞いに
「目上の者に対して敬意も払えない日本の野蛮人め」
と激昂、南方もディキンズのこの高慢な態度に腹を立て
「権威に媚び明らかな間違いを不問にしてまで
阿諛追従する者など日本には居ない」と怒鳴り返す。
その場は喧嘩別れに終わるが暫くして南方の言い分に
得心したディキンズはそれから終生、
南方を友人として扱った。


■猫好きなことで有名。ロンドン留学から帰国後、
猫を飼い始める。名前は一貫してチョボ六。
ロンドン時代は、掛け布団がわりに猫を抱いて寝ていたという。
のちに妻となる松枝に会う口実として、何度も汚い猫を
連れてきては猫の身体を松枝に洗ってもらった。


■熊楠は、柳田國男にジョージ・ゴム(英語版)(George Laurence Gomme)編
『The handbook of folklore(民俗学便覧)』を貸している。
これは、日本の民俗学の体系化に大きな影響を与えることとなった。


■ホメロスの『オデュッセイア』が中世日本にも伝わり、
幸若舞などにもなっている説話
『百合若大臣』に翻案されたという説を唱えた。


■熊楠の手による論文はきちんとした起承転結が無く、
結論らしき部分がないまま突然終わってしまうこともあった。
また、扱っている話題が飛び飛びに飛躍し、隣人の悪口
などまったく関連のない話題が突然割り込んでくることもあった。
さらに、猥談が挟み込まれることも多く、柳田国男はそうした
熊楠の論文にたびたび苦言を呈した。

しかし、思考は細部に至るまで緻密であり、
一つ一つの論理に散漫なところはまったく無く、
こうした熊楠の論文の傾向を中沢新一は研究と
同じく文章を書くことも熊楠自身の気性を
落ち着かせるために重要だったためと分析している。

「熊楠の文章は、異質なレベルの間を、自在にジャンプ
していくのだ。 (中略)話題と話題がなめらかに
接続されていくことよりも、熊楠はそれらが、
カタストロフィックにジャンプしていくことのほうを、好むのだ。」、
「文章に猥談を突入させることによって、
彼の文章はつねに、なまなましい生命が侵入し
ているような印象があたえられる、(中略)言葉の秩序の中に、
いきなり生命のマテリアルな基底が、突入してくるのだ。
このおかげで熊楠の文章は、ヘテロジニアスな構造を
もつことになる。」と分析し、「こういう構造をもった文章でなければ、
熊楠は書いた気がしなかったのだ。
手紙にせよ、論文にせよ、なにかを書くことは、
熊楠の中では、自分の大脳にたえまなく発生する
分裂する力に、フォルムをあたえ満足させる、
という以外の意味をもっていなかったからだ。」と考え、
また彼の文体構造の特徴を「マンダラ的である」とも語り、
「マンダラの構造を、文章表現に移し変えると、
そこに熊楠の文体が生まれ出てくる。」
とも述べている。


■生涯定職に就かなかったためにろくに収入が無く、
父の遺産や造り酒屋として成功していた弟・常楠の援助に
頼りっきりだった。
常楠は、奇行が多い上に何かにつけて自分に援助を
求めてくる兄をこころよく思っておらず、研究所設立のため
資金集めをしていた時に遺産相続の問題で衝突して以降、
生涯絶縁状態になった。
熊楠が危篤の際には電報を受けて駆けつけたが、
臨終には間に合わなかった。


■口から胃の内容物を自在に吐瀉できる反芻胃を持つ体質で、
小学校時代も喧嘩をすると“パッ”と吐いた。
そのため、喧嘩に負けたことが無かったという。

■蔵書家ではあったが、不要な本はたとえ
贈呈されたものであっても返却したという。
また、「学問は活物(いきもの)で書籍は糟粕だ」との
ことばも残している。
ただし、こんにち残された蔵書のほとんどはシミ一つなく
色褪せない状態で保存されているという。


■酒豪であり、友人とともに盛り場に繰り出して芸者をあげて
馬鹿騒ぎをするのが何よりも好きだった。
酔って喧嘩をして警察の世話になるなど、
酒にまつわる失敗も少なくなかった。


■語学にはきわめて堪能で英語、フランス語、ドイツ語は
もとよりサンスクリット語におよぶ19の言語を操ったといわれる。
語学習得の極意は「対訳本に目を通す、それから酒場に出向き
周囲の会話から繰り返し出てくる言葉を覚える」の2つだけであった。


■1906年(明治39年)末に布告された「神社合祀令」によって
土着の信仰・習俗が毀損され、また神社林(いわゆる
「鎮守の森」)が伐採されて固有の生態系が破壊されてしまうことを憂い、
翌1907年(明治40年)より神社合祀反対運動を起こした。
今日、この運動は自然保護運動、あるいはエコロジー活動の
先がけとして高く評価されており、その活動は、2004年(平成16年)
に世界遺産(文化遺産)にも登録された熊野古道が
今に残る端緒ともなっている。


■江戸川乱歩、岩田準一とともに男色(衆道)関連の
文献研究を熱心に行ったことでも知られている。
戦前の日本では男色行為は決して珍しいことではなかったが、
熊楠自身にそういった経験があったかどうかは不明。


■当時の人間にしては珍しく、比較的多くの写真が
残っているため写真に撮られるのが好きだった
といわれている。


■臨終の際、医者を呼ぶかと問われると
「花が消えるから」と拒否したという。


■熊楠の脳は大阪大学医学部にホルマリン漬けとして保存されている。
本人は幽体離脱や幻覚などをたびたび体験していたため、
死後自分の脳を調べてもらうよう要望していた。
MRIで調べたところ右側頭葉奥の海馬に萎縮があり、
それが幻覚の元になった可能性があるといわれる。


■熊楠が飼っていた亀は2000年(平成12年)近くまで生きていた。
正確な年齢はわからないものの、100歳は超えていたといわれる。



猫楠―南方熊楠の生涯 <角川文庫>

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松旭斎天勝 - 明治時代のプリンセス・テンコー -

松旭斎天勝
12 /09 2016
松旭斎 天勝 (しょうきょくさい てんかつ)

本名:中井かつ

1886年(明治19年)5月21日 - 1944年(昭和19年)11月11日)

明治後半から昭和初期まで興行界で
大成功した女流奇術師。
東京、神田生まれ。

女流イリュージョニストである二代目・引田天功(プリンセス・テンコー)
の師、初代・引田天功は松旭斎天勝の弟弟子である
松旭斎天洋 門下であり、遡れば彼女もまた「松旭斎一門」である。

Shokyokusai


経歴:
1895年(明治28年)、神田松富町の質屋の
娘だったが家業が失敗、
門前仲町のテンプラ屋に奉公人として勤める。

店主が当時の一流奇術師・松旭斎天一
(しょうきょくさい てんいち)だった事が縁で、
器用さを見込まれ弟子として採用された。

後に天一に妾になるよう迫られ、
自殺を図るも一命は取り留める。

それからは 奇術を積極的に自分の物にすると決心、
妾を宿命とし受け入れた。

弟子70人を数える『天一一座』でスターとして頭角を表し、
「天勝」として舞台へ出演した。

日本人離れした大柄な体格とキュートな美貌で人気を博し、
数度に渡るアメリカ興行も成功させた。

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<天勝と助手>


帰国後の公演では、スパンコールの衣裳に付け睫毛という
日本初の欧米風なマジックショーを披露。
モダンさと目新しさに大衆は熱狂した。

1911年(明治44年)、27歳で独立。
座員100名を越す『天勝一座』の座長になった。

一座のマネジャーを務めた野呂辰之助と結婚。

奇術師の立場が強くなかったこの時代、
一座と天勝を守るため野呂が
考慮した便宜上の入籍だといわれている。

「奇術といえば天勝」という代名詞にもなった程の
知名度を誇り、キャラクター商品なども
大ヒットした。

当時の得意芸としては水芸などがある。
この人気と知名度にあやかった
ニセ物の"天勝一座"も複数現れたと言われる。

引退後は姪に二代目天勝の名を譲る。

50歳を過ぎてからスペイン語の学者と出逢い、
一生を添い遂げた。

墓所は台東区西徳寺。

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<松旭斎天一 一座のポスター (明治41年公演分)左が天勝>

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奇術師誕生―松旭斎天一・天二・天勝 <単行本>


天一一代―明治のスーパーマジシャン <単行本>
■ 幕末、福井の下級武士の家に生まれた悪童は、
日本伝統奇術「手妻」と西洋奇術の第一人者・松旭斎天一となり、
日本全国はもとより、アメリカ、ヨーロッパ公演を成功させ、
川上音二郎や桃中軒雲右衛門と並び称される、
明治の代表的芸能人となった…激動の
明治のスーパースターの面白すぎる生涯を、
現役マジシャンの第一人者が描く!
松旭斎天一没後一〇〇年記念出版。

スマイルKK

趣味:マニアック且つ良い意味でクレイジーに生きた人物を探すこと!

*写真は「燃えよドラゴン」のロケ地である香港・青山寺にて撮影。
有名な「Don't think. Feel!」(あれこれ考えるな。感じとれ!)
のセリフを残した場所。

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